明治25年、父新原敏三、母ふくの長男として東京の京橋に生まれる。生後間もなく母が精神を病み、母の実家の芥川家に引き取られ、11歳の時に養子となる。大正2年(1913年)に東京帝国大学文科大学英文学科に入学。高校の同期生である菊池寛らと同人誌「新思潮」(第三次)を創刊。翌年「帝国文学」で『羅生門』を発表すると、この年に夏目漱石と面会し、漱石を囲む木曜会に参加するようになった。
作家としての大きなステップは、大学卒業の年の大正5年に「新思潮」(第四次)で発表した『鼻』で、作品は漱石から絶賛された。同年に「新小説」に発表した『芋粥』も評価は高く、龍之介は一躍文壇から注目を集めることになった。しかし後年は、神経衰弱を患うなど健康が優れず、作風も『歯車』や『河童』のように、人生や生死を見つめたものに変わっていく。そして昭和2年(1927年)7月24日、龍之介は多量の睡眠薬を飲んで世を去った。
慶応3年、父常尚と母八重の長男として現在の愛媛県松山市に生まれる。本名常規。明治17年(1884年)、東京大学予備門(後の第一高等中学校)へ入学。同級の夏目漱石と親交を深める。このころから俳句を作り始める。明治22年子規と号す。明治25年、帝国大学文科大学国文科を退学し日本新聞社に入社。日清戦争に際して、記者として従軍するが、その帰路に喀血。
明治31年、子規を中心として蕪村句集輪読会が行われ、俳誌「ホトトギス」の東京版第一号も発行された。芭蕉より蕪村を評価し、俳句における“写生”の重要性を説いた子規にとって、この年は象徴的な年といえる。また、同年、新聞「日本」紙上で『歌よみに与ふる書』の連載も開始、子規庵での初めての歌会も行われており、子規が本格的に短歌の革新に乗り出した時期にも当たる。明治33年、大量の喀血。明治35年、「糸瓜咲て…」などの絶筆三句を残し、34歳の生涯を閉じる。
大正13(1924)年夏、小説家・芥川龍之介は軽井沢(長野県)を訪れ、歌人・翻訳家として才能を発揮していた片山廣子と出会います。廣子と芥川は、異性として、また芸術家同士として惹かれ合い、心の交流を深めます。二人の恋情は、男女の関係として深まることはありませんでしたが、晩年の芥川の心情に強い影響を及ぼし、堀辰雄の小説のモデルともなりました。
『鼻』『羅生門』などの小説で知られる芥川龍之介は、昭和2(1927)年7月24日、自ら命を絶ちました。35歳の若さでした。その死後に発見された遺稿『或阿呆の一生』に、次のような一節があります。
彼は彼と才力の上にも格闘出来る女に遭遇した。が、「越し人」等の抒情詩を作り、僅かにこの危機を脱出した。それは何か木の幹に凍つた、かがやかしい雪を落すやうに切ない心もちのするものだつた。
風に舞ひたるすげ笠の
何かは道に落ちざらん
わが名はいかで惜しむべき
惜しむは君が名のみとよ。
「彼」というのは芥川自身で、「才力の上にも格闘出来る女」は歌人・翻訳家として活躍した片山廣子だといわれています。また、「越し人」とは、文芸誌『明星』大正14年3月号に発表された芥川の旋頭歌(和歌の一種で五七七・五七七の形式)25首のことで、その巻頭には次の歌が掲げられていました。
あぶら火のひかりに見つつこころ悲しも、
み雪ふる越路のひとの年ほぎのふみ。
左から菊池寛、芥川龍之介、武藤長蔵、永見徳太郎
実は、この歌は、廣子の第一歌集『翡翠』(大正5年刊)中の、「軽井沢にてよみける歌十四首」の巻頭、
空ちかき越路の山のみねの雪
夕日に遠く見ればさびしき
に応える形で詠まれた歌といわれます。「越し人」つまり「越路のひと」とは、廣子その人のことだったのです。
ユーキャン出版事業部刊行『名作散歩』より一部抜粋
写真提供:日本近代文学館
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